1950年代にアメリカ人実業家が撮影した日本の美しいカラー写真の中に「京阪特急」の文字が。

数日前に「はてなブックマーク」などで「米国の実業家が1950年代に撮影した、日本の美しいカラー写真」が話題になってました。とても数十年前に撮影されたとは思えないような綺麗な写真ばかりなのですが、その中の写真に“京阪特急”の文字がありました。
こちらの写真。
20101225herb1

Osaka | Flickr

写真左側に見えてる看板です。ちょっとボケてるので確かじゃないですが「京都の真ん中へ京阪特急48分」と書いてあります。「トリスウヰスキー」とか「タイヘイパチンコ」「洋服コンドル」と懐かしいどころか「ここどこやねん」って感じですが、この写真を紹介した“ひろぶろ”というサイトのコメント欄でいろいろ考察されてました。

(引用)
画面中央の赤い広告幕、「洋服コンドル」の文字に注目しました。検索したところ、難波に同名の会社がヒットしました。しかし現在同所に会社は現存しません。当該場所は牛丼の松屋千日前店と出ました。
ストリートビューで付近を探索したところ、近辺に芝長本店という酒屋を発見。(中略)
画面向かって右、アサヒビールやトリスウヰスキーの看板に隠れた建物、なんとなく似ているように思うのですが。
洋服コンドル(現松屋千日前店)と芝長本店の位置関係から、この写真は戎橋筋に背を向け、難波本通を東方向に向けて撮影したものであると推測します。

スゴイ洞察力。これに従って上の写真と同じ方向をストリートビューを見るとこうなります。
20101225herb2
Googleストリートビューで見る

右側の光ってる看板に“シバチョウ”ってあるのわかります?これが古いほうの写真のアサヒビールの看板の下に“芝長本店”と写ってるのと同じ場所なんだそうです。
ストリートビューで見るかぎり現在の芝長本店は相当古い建物ですが、もしかしたら当時のまんまなのかもしれません。

というわけでこれは難波の写真だということになるんですが、なんで難波に「京阪特急」の看板があるんでしょう。看板の左側に「案内所」とあるので、ここはいろんな交通手段の案内をする場所だったんですかね?そこに京阪が広告を出していたということでしょうか。この写真が撮影された1959年の前年には京阪が「京阪特急」という楽曲をリリースしてプッシュしてたみたいですし、そんな感じかと。(→京阪特急 Wikipedia)


そんなことより(おい)、他におもしろかったのがこちらの写真。
20101225herb3

Osaka / Flickr

戎橋筋の写真だそうですが、奥に高島屋が見えます。

でこちらが今の同じ方向から見たストリートビュー。
20101225herb4
Googleストリートビューで見る

アーケードがあるので古い方の写真よりは近くに寄ってますが、高島屋の建物が全く一緒。でも他に写ってるものは全部変わっちゃってます。変わらないものを基準にして写真を並べると歴史が感じられておもしろいですねー。

このHerb Gouldonさんというアメリカ人実業家が撮影した他の古い写真は以下で見られます。心斎橋のネオンなどもおもしろいですよ。

Nigawa
Kobe
Japan1955
Japan1955-2
Japan1956
Japan1958
Japan1958-2
Japan1959

以上、すべてFlickr

ライター:カズマ カズマ

カテゴリ : エンタメ 歴史

この記事へのコメント

30. カズマ@ひらつー   2011年06月30日 17:57
はい、同じ方だと思いますよ~^^
29. 仁川の住民から 6/22投稿者   2011年06月29日 14:34
カズマ@ひらつーさん どうもありがとうございます。でも25・26の投稿されている方は同一の方なのでしょうか?どちらもクリックすると同じメアドが表示されるのですけど?また愚問であればお許しください。
28. カズマ@ひらつー   2011年06月29日 12:49
>仁川の住民から 6/22投稿者さん
25・26の「仁川の住民から」さんの名前のところをクリックするとメールが送信できますよ^^
27. 仁川の住民から 6/22投稿者   2011年06月29日 11:05
>25>26に投稿の方 連絡差し上げるのは全く差しつかえありませんがなにせあまりインターネットに詳しくありませんのでどうすればよいのでしょうか?貴殿の投稿メールからの貴殿のメールアドレスを呼び出せるのでしょうか?愚問で申し訳ない。メアド教えてください。
26. 仁川の住民から   2011年06月28日 23:03
上が原でしたか、友人が其処を出ています、中高は雲雀丘学園に行っていましたので、同級生で、小林一三のひ孫がいてました、クラブの先輩が、サントリーの専務になります、雲雀は、阪急とサントリーが建てた学校なので、当時は、阪神間でただ一つの、男女共学校でした、私の時代は、かなり家庭的な学校でしたが、今は進学校になっていますが、当時の担任が、幼稚園の園長に今年なりました。映画になった阪急電車に出てきてるのは、今津線ですが、沿線住民には、かなり不評でしたね、映画で使われたのは、ただ一つ残った編成の、3000系を使って撮られています、あの電車だけが、昔のまま、前に行き先の看板が付いているので、ロケに使われたそうです、ぜひお会いしたいのですが、無理でしょうか、連絡を下さい
25. 仁川の住人   2011年06月28日 22:42
返信ありがとうございます、仁川眼科は、叔父が始めましたが、今は従弟たちが交代で見ています、長男は。兵庫医大の、眼科の教授になっていますが、川瀬は潰れて有りません、母たちが仁川に住んだのは、昭和13年からになります、突き出ている茶室は、戦前は公園の一部だったそうです、母が言うには、ポニーなどがいた記憶が有るようです、仁川には、今でも親戚が数件住んでいるので、このカラー写真が欲しいそうなので、直接撮った人にメールをする予定です、今。高校に勤めているので英語の先生に、今英訳を頼んでいます、祖母の家も取り壊されてなくなりましたが、従弟が、面影を残した家を建てています、一度会いたいのですが、無理でしょうか、行けるとこなら迎えに行きますので、メールをしてください
24. 仁川の住民から 6/22投稿者   2011年06月27日 11:14
上ヶ原小学校の二期生です。三年生のときに甲東小学校が満杯になり新しくできた上ヶ原小学校に移ってきた団塊世代です。きむらやの並びには仁川薬局、不動産屋さん、川瀬書店、仁川眼科がありここには結膜炎でお世話になりました、少し奥に川人歯科があり恐らく息子さん?が今開業されているみたいですね。鵜飼の名前は残念ながら記憶にないですね。競馬場側には池田銀行はありましたね。その対面には競馬好きの肉屋さん、線路沿いの細い路地にはエーワンベーカリーがひっそりとありました。弁天池の突き出てるのはお茶室なんでしょうか今でもありますよ。
23. 仁川の住民から   2011年06月27日 00:21
久しぶりに、香里園に行ってみたくなりました、私にとっては小学生時代の大切な、思い出の所なので、今度案内をして欲しいですね、サラリーマンなので、土日しか出れませんが、年に一度の京阪電車に乗る機会でした、親戚の家がどのあたりだったかを、母に聞いておきます、確かバスに乗った記憶が有るのですが、元弾薬庫の官舎だったのは聞いていました、あのころが懐かしい、ただあのころの、親戚で、同年代のとは、今でも付き合いは有るのですが、一人は、新千里で歯医者をしています、もう一人は、大阪に住んでいます、男子は3人だけでしたので、二人は祖母の妹の孫になります、私側は、私が最後の直系男子になってしまってますが、今度会ってください
22. 仁川の住民   2011年06月26日 19:50
6月22日に投稿した小父さんに伝えます、あの当時なら、すでに叔父が、仁川眼科と言うのを開業していたはずですが、覚えていないでしょうか、駅間には、鵜飼と言う名前も有ったはずですが、本屋は有りましたか、今は潰れて有りませんが、競馬場側に池田銀行が駅前に有ったはずですが、今は再開発で、競馬場側には、ほとんど昔の面影は残っていませんが、上手には、かなり昔の家が残っています、弁天池が判るなら、突き出ている、家にも覚えが有るでしょう、戦前は公園的なとこだったそうですが、親戚中で撮った写真が残っていますので、私の、母方には、かなり古い写真が多数残っています、戦前に16ミリの映画を撮っていたぐらいですので、親戚の集まりをですが、一度見ませんか、会いたいです、今は宝塚在住です
21. 仁川の住人   2011年06月26日 19:35
前に、投降した者です、今は勤め先が高校ですので、英語の先生に、原文を書いてもらい、アメリカに送りたいと思っています、子供は特定ができました、やはり駅前に有った不動産屋の子供でした、今約60代後半のはずですが、最後の投稿した人と連絡が取りたいのですが、あの当時なら、多分仁川なら、甲東小学校か、段上辺りではないかと思えるのですが、それとも宝塚側になるかな、とにかく話がしたいです、私が生まれる、約4年ほど前の写真になりますが、多分姉が生まれたころではないかと思いますので宜しくお願いします
20. 仁川の住民から   2011年06月22日 16:34
別のHPにも投稿しましたが62歳の男性です。57年前から20数年間 仁川に住んでおりました。幼かった頃の懐かしい仁川駅近辺の写真を見れて感激しています。7番の弁天池にはしょっちゅうボートに乗りに行きましたし21.33番のきむらやではよくお菓子を買いましたし50番の看板の伊東小児科にもよくお世話になりましたし息子さんとは小学校が同学年でした。47.48.49番等も懐かしい風景です。当時の仁川駅は上り線に行くのに駅の中の踏切をわたっていたといった記憶もよみがえってきました。
19. 仁川の住民から   2011年02月21日 14:43
探します、まだ有るならすべて見たいので、関西地方にかなり旅行したのではと思いますので、仁川に住んでいる友人たちに、この写真の話をしたところ、かなりの反響が着ています、弁天池のボートがみんな、懐かしいと行ってますね、あの池は、私達の憩いの場でしたから、良く魚も釣りに行ったし、あの池には、個人宅から池に突き出た、茶室が、今でも残っているので、其処の人にも、連絡をして置きました、池に面した家からは大抵池に出えれるようになっていたので、何軒かは知り合いになります、中にアメリカ人を知っている人がいるような話も聞きましたが、家が特定できるかも
18. カズマ@ひらつー   2011年02月21日 10:20
>仁川の住人からさん
詳しい説明ありがとうございます!連絡とるならどなたか英語ができる人にお願いするしかないでしょうねー。僕はできません
17. 仁川の住民から   2011年02月20日 21:50
私が小学生のころまでは、可なり田舎でした、学校の前はたまねぎ畑で、近くにあったのは、関学と神戸女学院くらいで、後はキリスト教の教会だらけでしたね、寺の方が少ない土地でした、昔から外人さんが多い土地柄ではありましたね、母と、私の兄弟は、同じ小学校を出ていますが、校舎も同じでした、戦前の仁川の写真は、家にかなりありますが、カラーは初めて見ました、もし英語が出来るなら、投稿者に問い合わせが出来ないでしょうか、たぶんまだ持ってるのではないかと思えるので、父が生きていたら頼めたのですが、翻訳業だったので
16. 仁川の住民から   2011年02月20日 21:40
母は、仁川には、昭和13年から住んで居ました、他の親戚は、昭和の初めごろから住んでいたそうです、私のひい爺さんが、大阪でアルミの鍋等を、初めて作り、当時はかなりの金持ちだったそうです、第1次大戦時には、ロシアから15万個の水稲の発注があり、作るのが大変だった話は聞いてます、神戸に天台宗の寺も寄進しています、明治の半ばだったそうですが、其処にはいま大きな馬頭観音があり、高松宮や常陸宮妃などが来られてます、お手植えの木があるので、近くに有った洋館は、最近明治村で公開されていますが、関学が近くにあります
15. 仁川の住民から   2011年02月20日 19:40
とにかく、懐かしい写真です、良く撮ってくれていた物です、多分郷土の歴史に残せる物だと思いますので、今は無くなってますが、川瀬という本屋が、有った時なら、もっと詳しく判ったはずですが主人が、仁川界隈の自己出版の本を出していた位でしたので、今でもまだ生き残ってる人は知ってますので、探してみます。ただ最低で60代以上になりますが競馬場には、戦時中、勤労動員で、川西の工場で、空襲に遭い死んだ学生の、慰霊碑が残っています、川西は今の新明和の母体になります、本社は、西宮にありますが、今でも飛行艇は作っていますが
14. 仁川の住民から   2011年02月20日 19:28
白黒の、子供が写っている駅の横は、多分、今でも解りますそれほど雰囲気が変わってないとこなので、プレジデントラインの船の写真は、多分手に入ると思います、今、ポートタワーが立っているあたりだと思いますので、神戸税関あたりならあると思いますので、近くに商船大学もありますので、もしかしたら、子供も特定できるかもしれません、あの年齢なら、下の小父位なので、当時は、まだ甲東村か、西宮市に編入された頃だと思います。宝塚と西宮の境目当たりですが駅前にある、不動産屋さんは今でもあるので、見せに行きます、友人の家なので
13. 仁川の住民から   2011年02月20日 19:15
昨日会った親戚のお姉さんが木村屋が、懐かしいと言ってました、駅前にあった店だそうです、もう少し早く、見れて入れてれば、去年亡くなった100歳で死んだ叔父が、駅前に住んでいたので、駅のどの当たりかがわかったのですが、仁川の駅は、駅の北側ほど雰囲気が、変わっていませんから、写真の撮った場所などは特定できると思います、弁天池のボート乗り場は、今は公民館になってますが、雰囲気は変わっていません、特に前に写っている家は、そのまま立っていますね。可なりの豪邸ですが、線路側からなら見えます、ぜひ見に来て下さい、案内しますので
12. 仁川の住民から   2011年02月20日 19:02
今度映画化される、阪急電車が、まさにその線です、今津線と言います、枚方から出したら、モノレールに乗り、阪急宝塚線に乗れば、宝塚に出れます、其処から仁川までは、だいたい15分以内だったと思いますが、私の通学路線でした、雲雀丘花屋敷駅が、通学先でしたので、スクールバスが写っていたとこは、電柱以外は、舗装されてる以外は、ほぼそのままの状態で今もあります、道幅も変わっていません、今の車ではかなり狭く感じますね、30年代以降は、仁川ピクニックセンターに行く人で、日曜はかなり混雑していました、懐かしい写真です
11. 仁川の住民から   2011年02月20日 18:46
5 英語が解らない時はどうしたらいいのですかね、今この写真は、親戚中で、話題になっています、今叔父は、仁川で医者として開業をしてるので、今度見せに行きます、昨日寺の先代の奥さんの通夜があり、その時に、この写真の事を知りました、ちょうどGHQから各家が返され始めた時期になります、当時の家は今はほとんど残ってないですが、いくつかは残っています、残念ですが、祖母の家も去年建て替えたとこです、弁天池は、仁川の駅の横にある、比較的大きな池です、ボート乗り場の位置も変わって無かったですね、まだまだ解説出来ますよ
10. カズマ@ひらつー   2011年02月20日 10:45
>仁川の住人からさん
おおお、とても詳しい解説ありがとうございます!!
この時代のここまではっきり写ってるカラー写真というのはほんとに貴重でしょうね。写真の持ち主への連絡は取ろうと思えば取れると思いますよ。リンク先のFlickrというサイトに掲載されている写真はHerb Gouldonさん本人による投稿みたいなので、Flickrからメッセージを送ればいいと思います^^
9. 仁川の住民から   2011年02月20日 05:53
この時期に、プレジレントラインで、日本に来て、商売ができるのは、かなり実力が有った人のはずです、東京で帝国ホテルに泊まれるのですから、かなり資産が有ったのではと考えられます。ネガが欲しいですね、人から聞いて初めて見ましたが、仁川界隈の戦後の復興の写真は、まだ見た事がなかったので、たぶんまだ有るのではと思いますが、手に入れるならどうしたらいいのですかね、だれか解る人はいませんか、多分阪急今津線も映している公算が高いようなので、弁天池のボートは、私が中学時代までありましたが
8. 仁川の住民から   2011年02月20日 05:31
仁川の駅が、写って居る白黒の写真は、今は多分、競馬場側だと思います、山が背景に見えるので、スクールバスが写っているとこは、仁川の上流に向いて左側ではないかと思います、前に薬屋の看板が見えているので、木村屋の店が、懐かしいですね、私が小さいころはまだ有ったと思いますので、大きな仏像は奈良の大仏だと思いますが、位のが惜しいですが、この写真の原板が手に入らないか、聞きたいですが、戦後の仁川の貴重な記録ですので、多分宝塚市も持ってない写真だと思いますので、すでに競馬場が有ったのは驚きです、紫電改を作っていたとこなので、川西航空機の後です
7. 仁川の住民から   2011年02月20日 05:18
5 船が写って居ましたが、神戸港だと思います、船はプレジテントラインの船なので、あの当時は、アメリカに行く、定期航路がありましたので、六甲山からの、風景も今では見れない、風景です、大変貴重な写真です、日本人の女性が家の庭で写っていますが、多分女中さんではないかと思いますが、まだ生きている可能性が高いと思いますので、探してみたいですね、六甲ケーブルも、3代位前の車体です、ケーブル会社にも多分カラーでは残ってないのではと思いますが、関西の貴重な戦後の記録です、戦後十年で良くあそこまで復興したものですね
6. 仁川の住民から   2011年02月20日 05:07
5 原爆ドームを、彼はどう思って撮影したかが、気になります、宮島は、最高の日に行ってますね、普通の家の写真は、多分アメリカ軍のGHQが、接収していた、家だと思います,仁川近辺では、かなりの家が、GHQに取られていたので、祖母の家も10年ほどと取られていたので、多分仁川の、高台当たりではと思います、帝国ホテルの旧館が写っていますが、今は明治村にありますが、あの時期にこれだけきれいな、カラー写真が残されていたのは、初めて見ました、ボートが写っていたのは、仁川にある弁天池だと思います、今でもありますが
5. 仁川の住民から   2011年02月19日 21:36
5 仁川は、母の里です、今から見せます、私から見てもかなり懐かしい感じを受けるので、今は、仁川から離れてますが、近くですので、叔父や従弟たちはまだ住んでいるので、祖母が生きていたら、判る風景だと思いますが、特に白黒の写真に載っている仁川駅は、母が見てら解るはずですので、知ってよかった、母の家は戦後GHQにより、接収されていたので、多分その時期の、仁川駅だと思うのですが
4. カズマ@ひらつー   2010年12月27日 15:09
>forzaさん
ストリートビューで見てみました!(URLが長くなるので貼り付けられなかったのかもしれません
タモリの看板の上にありますね!今まで何度も見てるはずなのに全く記憶にありませんでした(笑)
3. forza   2010年12月26日 23:45
なんばには今でも京阪電車の広告有りますよ、高島屋からりくろーおじさんに向かって横断歩道を渡った辺りに(URL貼ろうとしたらはねられました)。
2. カズマ@ひらつー   2010年12月26日 14:49
>牧野っ娘さん
ほんと子供もいまおっちゃんだと思うとすごいですよね。商店街の写真で写ってる一人ひとりがどんな50年を生きたのかと考えると感慨深いというかなんというか変な気分です
1. 牧野っ娘   2010年12月26日 00:42
戦後10年で凄く復興してたんですね。
でも空気が綺麗
大阪市内から六甲山、生駒山、そして
京都に続く空がよく見えます仁川、伊丹の辺りが畑、田んぼ、そして緑ばっかり

でも何が驚くって写真に写っている
可愛い男の子が半世紀と5年で
左上のおっちゃんになっていること(たぶん、だけど)