ひらかたメモリーズ file.010 [2010年5月@宮之阪]

枚方の人々の思い出を元にした、ほぼノンフィクションの読み切りエピソード集「ひらかたメモリーズ」、第10回をお届けします。




ひらかたメモリーズ file.010

2010年5月@宮之阪 午後10時


 車輪の小さな自転車を懸命にこぎ、禁野橋を登りきった香織は、宮之阪への下り坂を鼻歌を唄いながら走り抜ける。宮之阪駅を越えてすぐの自宅に着くと、ソッコーで服を脱ぎ捨てシャワーを済ませた香織は、部屋着に着替えたところでようやくひと息ついた。

 起業してから三年が過ぎようとしていた。『思い切って帰阪してよかった』と口先だけではなく、やっと本心から思えるようになってきた。事業が軌道に乗ってきた実感が、今は確かにある。

 東京で暮らした七年間は楽しかったし思っていた以上に色んなことがあった。でも、香織には起業という夢があった。彼氏とも別れた。
 
 なにごともタイミングだ、と思う。
 あたしはタイミングをつかめたのだ。

 残り少ないミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から取り出し、腰に手を当ててペットボトルのまま一気に飲み干す。


 香織は今、純愛をしている。

 これまでの恋愛で他人に胸を張って言えるような話は、正直なところひとつもない。相手は妻帯者だったこともあるし、二股相手としてそれを承知の上で付き合ったこともある。それでも、いわゆる二号さんのポジションは気楽で、それなりに楽しめた。

 それに…
 奪ってまで一緒になりたいとも思わなかった。

― そんな後ろめたいことをして一緒になった所で、幸せになんてなれっこない。

 香織はそんな風に思っていた。だから結局別れることになっても、「やっぱりな…」とどこか冷めていた。このまま、ロクな恋愛をしないままで歳をとっていくのかなぁ…そんな風に思ったことは一度や二度ではない。

 でも彼に出会ってから香織は変わった。安易に寂しさを埋めたいとも思わなくなった。どれほど遠く離れていても彼の愛の言葉は心に届いた。

 ノートパソコンを開き立ち上げると、MSN Messengerの彼がオンラインになってた。香織は驚いて思わず二度見した。南米に住む彼との時差は14時間。こっちが午後10時ということは22時-14時間=朝8時。つまり向こうは今朝の8時になったばかりだ。これまでのチャットは昼食時などを利用してやっていたので、向こうは前日の夜10時くらいだったはずだ。
 
 こんな時間にチャットするのは初めてだ。香織は何事かと恐る恐るクリックした。

― こんな時間に来るの珍しいだろ?

 彼のいたずらっぽい笑顔が目に浮かぶ。

― うん、でも、すごく嬉しい

 香織は素直に喜んだ。今日の昼間もチャットしたばかりなのに彼はわざわざもう一度会いにきてくれた。彼の家にネット環境はなく、近所のネットカフェからつないでくれているのは知っていた。一日に二回チャットできるなんて、付き合ってから初めてのことだ。
 
 やりとりはスペイン語で行われる。

 彼の母国語はスペイン語で、香織は彼に出会ってから猛勉強をした。最初は彼の文章をコピペして翻訳サイトにそのままぶち込んで、自分のメッセージも日本語で書いてから翻訳サイトに…という手間のかかる会話だった。

 それが、ずいぶんスムーズにチャットもできるようになってきた。加えて、ここ最近はwebカメラを使ってこっちの映像を送っていたので少しずつ会話も楽しめるようになっていた。
 
 しばらくやりとりしたのち、ビデオ通話要求のボタンが立ち上がった。風呂上がりでスッピンの香織は拒否ボタンを押した。

― どうして?

― 化粧してないから、顔は見せられない

 そう答えると、ワナワナと震えながら泣きじゃくる絵文字を彼は大量に送ってきた。画面は小さな涙顔でみるみる埋まっていく。

― わかった! わかったから!

 伊達メガネをかけて目元をごまかすことにしたが、髪はいい加減に乾かしたのでボサボサ。てんやわんやになりながら承諾ボタンを押した。途端に画面は笑顔の絵文字で埋まっていく。

― ゴメンね~。髪もボサボサで。

― そんなこと言わないで!君の髪、大好きだよ!

 彼は香織のことを何でも好きだと言ってくれる。もちろん嬉しいけれど、本当に彼はあたしでいいのかな?とも思う。彼の国には私より断然セクシーで、私より断然美しい女性がいることは香織も知っている。

― ありがとう。でも、あたしはそんなに可愛くないし、太ってるし…

― そんなことない!君はとてもスリムだ!

― いやいや。そう見えているだけなの…

― そんなことない。僕は真剣に言ってるよ。…まだ痩せたいの?

― うん。痩せたい。あたしは醜いから。そっちの国の人は可愛い人ばかりでしょ?

― なんでそんなこと言うの?あなたは醜くなんてない。あなたは可愛い。

― ありがとう。でも、あなたのためにもっとキレイになりたいの。

― 至る所にかわいい女の子はいるかもしれないけど、至る所に君はいない。僕は全部が最高に可愛いキミを恋人にできて、本当に幸運なんだよ!

― ありがとう…

― 可愛くないなんて、二度とそんなこと言わないで。だってあなたは世界で一番かわいいんだから。あなたは僕の天使なんだから。

― わかった。もう言わない

 あきれるほどまっすぐに愛の言葉を届けてくれる彼に香織はカメラ越しにキスを送る。そんなことで、たったそれだけのことで、彼は心の底から喜んでくれて、その喜びを言葉にしてくれる。

 愛している
 世界で一番幸せ
 僕の天使
 君は世界一ステキだ

 これらはほんの一例で、数えればキリがないほどの愛のこもった言葉を彼からもらった。こんなステキな言葉が自分にふさわしいのだろうか…と思わないこともない。でも彼にとってそれが本心だったらこれほど嬉しいこともきっとない。
 
 幸せな気持ちに浸りながらの時間はあっという間に過ぎる。

 彼は仕事に行ってしまい、夢のようなチャットは終わりをつげる。あたしの今日はもうすぐ終わり、彼の今日はこれから始まる。地球の裏側に住むというのはそういうことだ。

 香織はしばらく夢心地で、いま、この瞬間の彼を想像してみる。

 あっちは晴れているだろうか?
 気温は何度くらいだろうか?
 私を恋しく思ってくれているだろうか?
 …誰かに告白されていないだろうか?

 想像は不安を呼んでもくるけれど、今の彼を思わずにはいられない。

 香織は目をつむって重力を感じるために寝転んでみる。からだはベッドに心地よく沈み込み、地球に引っぱられているのを感じる。それはつまり、地球の裏側の彼もあたしの方へ引かれているということなのだ。あたしたちは遠く離れていても地球規模で惹かれあっている。

 そう思うと香織は前向きになれ、今夜も引力を感じながらベッドの上で深い眠りに落ちていくのである。


(おわり)


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